映画「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」を観て

「高校生活の初日。
クラスで自己紹介が始まり、やがて志乃の順番がくるが、なかなか自分の名前が言えない。
志乃は吃音のコンプレックスを抱えていた。
友達もできず、体育館裏でひとり弁当を食べる志乃だったが、ひょんなことから同じクラスの加代と親しくなる。
アーティストを目指す加代だったが、彼女もまた音痴というコンプレックスを抱えていた。」

コンプレックスを抱えた二人が出会い、文化祭でステージに立つことを目指し、歌とギターを極めていく。
おどおどしながらストリート演奏に望む二人だが、回数を重ねるうちに、歌唱力、演奏力も高まり、聴衆も増えていく。
酷かった吃音も軽度になり、志乃と加代との会話も、普通の女子高生と変わりないものになっていく。
めでたしめでたしの大団円で終わるのか・・・と思いきや、事態は急変し、モヤモヤを残すエンディングを迎える。

なんでこんな終わり方?と鑑賞後思ったのだが・・・待てよ。
ハッピーエンドとして望んだ自分が望んだ終わり方は正しいのか?
コンプレックスは克服すべき、吃音は治すべき、音痴も矯正すべき。
それって「こうあるべき」という世間的な正解の押し付けではないのか?
映画終盤、体育館での志乃の叫びが、その答えなんだろう。
「これも自分なんだ」

志乃の吃音をなんとかしようとする先生や親、彼女を取り巻く大人たち。
まさに自分もそちら側にたっていたのかもしれない。

青春映画の体を成しながら、鑑賞後、いろいろ考えさせられた秀作だった。

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